水俣病は終わっていない

水俣病を知っていますか?

メチル水銀によって汚染された不知火海沿岸地域の魚介類を日常的に摂取することで発症する、中毒性の中枢神経疾患。

症状は手足の震え・しびれ・言語障害・歩行障害・視野狭窄・難聴などですが、重篤な場合には狂騒状態や意識不明になって死亡することから、はじめは「奇病」といわれ水俣病そのものへの社会的な偏見にもつながりました。

また、女性では水銀の影響で流産・死産する人が多く、身体的な障害だけでなく心にも深い傷を負っていることは、あまり知られていないところです。

9/20・21に、水俣病発生の地、不知火海沿岸地域(熊本・鹿児島)で行われた「水俣大検診」。

全国から民医連の医師や看護師650名が駆けつけ、いまだ実態が明らかになっていない水俣病患者の掘り起こし検診に参加しました。

1950年代、塩化ビニールが急速に普及し始め、その製造を一手に引き受けていたチッソ(現:チッソ株式会社)水俣工場から排出されたのがメチル水銀でした。

・・・というと、すごく昔のお話のように聞こえるかもしれませんが、実はまだ、全貌は明らかになっていません。

当時はいわゆる「高度成長期」。

便利さや豊かさを求めて、人々が盲目的にひた走っていた時代です。

この工場を稼動させ続けることは、国の政策でもあった。

そして、熊本県水俣市は「チッソ」という大企業の城下町。

そのため、「チッソあっての水俣市」と考える多くの市民の間では「水俣病」と口にするのも憚られたといいます。

一方で、不知火海沿岸は、昔から豊かな海の恵みを受けて漁業を生活の糧にしてきた土地です。

3食とも不知火で獲れた魚介類を食べ続けた漁民の多くが、中枢神経をおかされました。

しかし、漁民にとって魚は生活の糧... 漁業協同組合は「魚が売れなくなる」と水俣病の漁師を隠蔽・排除してきた、という悲しい過去もあります。

今回の大検診に、関西から受診に来た40代の男性は語ります。

「親父は水俣病認定患者でした。

うちでは毎日食卓に魚があった。漁民は、魚しか食べるものがなかったからね。

子どもの頃、親父は水俣病で働けんようになって、息を潜めるように暮らしていました。

私にとって、水俣は息苦しい町。

『水俣病』という重荷から逃げるように関西に移り住んで20年余り。

30代頃から、腰痛や足の痛みに悩まされるようになりました。

子どもの頃から不器用だと思っていた手指が常に細かく震えるようになって... まっすぐ線が引けないんです。

病院に行ってもわからないし、何をしても治らない...

自分も水俣病なのか、はっきりさせたいと思い、20年ぶりに帰って来ました。」

診断は、「水俣病の疑いあり」。

しかし、この年代では医療費の助成などの救済策は受けられません。

チッソがやっと排水を停止したのは、水俣病の公式発見から12年後の1968年。

国もやっと水俣病を公害病と認定しましたが、「排水を停止した後の1969年以降には新たな水俣病患者はいない」と、被害を認めていません。

明らかに所見が認められるような人でも、1969年以降に生まれた人は医療費無料などの救済制度は一切利用できないのです。

しかし、勤医会から参加した医師は「一番若い人は茶髪にジャージの20代後半。でも明らかに水俣病の神経症状があった。」と話します。

現役漁師の60代男性は、船の上で繰り返しこむら返りが起こります。

「腕が反り返り、自分の手じゃないようになる。

その日は漁をやめるしかない。月に10日はそんな感じ。

夜は耳鳴りで眠れない」。

しかし、彼もまた救済制度は利用できません。

1969年以前の生まれですが、政府が救済制度適用地域と認める「指定地域」の居住ではないからです。

また、検診に参加した代々木病院の医師は「患者さんの痛みを知る」「患者さんの立場に立つ」ということの意義と難しさを改めて痛感した、と話します。

「やけどや捻挫にも気づかず放置してしまう...というように、水俣病の主な症状として痛覚の麻痺がありますね。

検診でも、指先を針でつついて痛覚の検査をしますが、自分自身、痛覚障害の知識があっても、あまりにも痛みの訴えがないので、ずいぶん長く手の先を刺してしまい、『先生、本当に痛くないんです』って言われて...

臨床ではよく、『患者さんの痛みがわかる』という言葉を使うけれど、この時の自分は単に症状の度合いを捉えようとしていた、本当の患者さんの『痛み』をわかろうとしていたわけではなかった、と思い知らされました。

チッソに勤めていた方は、ご家族3人でいらっしゃいました。

お父さんは、問診表の『今まで水俣病の認定申請しなかった理由』の欄に『チッソが生活のすべてだったから』と書いていました。

お子さんには脳性まひの症状があり、胎児性水俣病の可能性が疑われましたが、コミュニケーションが困難で検診自体、行うことが難しかったんです。

しかし、お母さんが涙を流して言うんです。

『どうしても診断書を書いてほしい、この子をどうにかして、明水園に入れてあげたいんです』

...明水園は、主に重症心身障害者の療養に当たる水俣病認定患者対応の施設です。

水俣協立病院への相談を勧めて、時間をかけて診断書を書いてもらうよう伝えました。

長年に渡り、様々な苦しみ・痛みに耐えてきたご家族の思いの一端を見て、水俣病が終わっていないということ、そしてこの公害病のもつ広くて深い背景を痛感しました。」

どうしたら、被害者は救われるのか。

なぜ、こんなことが起きたのか。

その追求は、加害企業チッソの分社化や国による実態調査がされていないこともあり、いまだ困難を極めています。

今回の大検診では、受診患者1051人の9割以上に水俣病の症状が認められました。

国が定めている水俣病認定基準が破綻していることは明らかです。

薬害エイズ、米国産輸入牛問題、アスベスト問題...

根本に水俣病と同じ問題をはらんだ事件は後を絶ちません。

水俣病と向き合い、その問題の根本を直視しなければいけない ―今回の水俣大検診は、あらためて私たちにそのことを教えてくれました。

2014年3月

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