ある会合の懇親会で、志田さん率いる職員グループが歌って踊って座を盛り上げているのを見た。志田さんって、面白そう...。前看護部長の斉藤さんによれば、「幅の広い人」とのこと。たしかに柔らかい笑顔を向けられると、ホッと気が緩んで、そばに寄って行きたくなる感じになる。さて、どんな人なんだろう?

私は本当は音楽の先生になりたかったのね。小学校からピアノを習い、合唱の発表会ではピアノの伴奏を担当したりと、いつも音楽と一緒でした。音大を受験したんですが、国公立だけをねらったものだから落ちて、予備校に行ったもののバンドを結成して遊んでしまい、また落ちて、行くところがなくなってしまったんです。心配した親が代々木病院の看護師募集の広告を見つけて、「お前は優しいから、看護師もいいんじゃないか」と。それで、付属准看護学校を卒業し代々木病院に入職しました。
その後、都立大塚看護専門学校に入って正看の資格を取り、病院に戻って、急性期で修業したんですが、ちょっと迷いが出てきて、精神に関心をもつようになりました。それで自分から希望して、中沢先生が立ち上げた3階の精神科病棟に異動させてもらいました。代々木病院の精神科は鍵も格子もない完全開放という理念を追求していましたから、とてもハードでした。でも、だからこそ、やりがいがあったし、鍛えられました。
●患者さんとの真剣勝負でつかんだこと
1986年、旧みさと協立病院に異動し、精神科病棟の立ち上げにかかわりました。その後、現在のみさと協立病院の建設、立ち上げにかかわり、精神科の病棟師長として3年やったんですが、振り返ってみると、この時期が一番しんどかったなと。完全開放では厳しい患者さんも引き受けていたし、スタッフも出入りが多くて安定しませんでした。
でも、精神での経験が私を鍛えてくれたと思います。患者さんとはいつも真剣勝負。リストカットを繰り返す若者に「なんでそんなことするの!」と、網の目のように傷のついた手首を思わず叩いてしまったこともあります。こっちがあまりにも真剣になって、「何だよ!」と水をぶっかけられたこともある。しんどいけれど、こちらが真剣に向き合うと、少しずつ関係ができてきて、「志田さん」と寄ってきてくれるようになる。そのうちに「志田さんがそばにいてくれると、安心する」と言って、相談事もしてくれるようになります。そんな患者さんとの結びつきの中で、私も頑張ってこれたと思います。
その後、老人病棟に移り、2000年に総看護師長、2004年に東葛病院に異動して2005年に総看護師長になりました。代々木、みさと、東葛と全部の病院を経験し、精神が一番長いですが、急性期も高齢者も経験できたことは私の財産です。
●経験を生かしつつ、緩やかに

この2年ほど、看護学生担当として看護師確保の取り組みをやってきて、2013年まではトータルで60~70人の看護学生が勤医会の奨学生になりました。看護学校と連携をとりながら、後継者をどう育てていくかが大きな課題です。さらに、東葛病院の7対1看護の安定的維持、勤医会のこれからに向けて看護から何を発信するか、などなど、課題は山積しています。看護部長としてどんな役割を果たせるか自信はありませんが、これまでの経験を生かして頑張っていきたいと思います。
話は変わって、ピアノは趣味で続けていました。でも、忙しくなってきて、練習がままならなくなり、40の手習いでエレクトーンを始めました。エレクトーンはいろんなジャンルが楽しめるし、1台でオーケストラサウンドからビッグバンドジャズまで、どんな音も作れます。発表会では数人のアンサンブルで、ジャズをやったり、クラシックのアレンジをやったり。楽しいですよ。
映画もちょっと面白そうと思ったら何でもみます。節操がないかもしれませんが、興味をもったら、とりあえずそっちに行ってみる。四角四面というんでなくて、緩やかな気持ちでやっていきたいですね。仕事も遊びも。